かんそう

トランスジェンダーが排除されているというのはどういうことなのか、
記事が流れてきて興味を持ったので、読んで、感想をつらつら書いてみる。
 
素晴らしい記事だと思っているし、だからこそ、色々な議論が気になった。
 
 
まず、申し訳ないがトランスジェンダーに分類する人のために僕が何かコストを直接払うことはないと思う。
一方で、社会がどうあるべきかというのには興味がある。
 
当事者から見て、僕の態度は腹立たしいものかもしれないが、
侮辱する意図はない。
 
さて、気になったところとしては排除と、トイレの2つが気になった。
 
【前提1】と【前提2】から、排除されているという結論になり、
【原則:誰も排除されてはならない】を根拠として、社会の在り方を変えるべきだという最終的な結論が出ている。
 
つまり、ある人の属性によらず、生きていくうえでコストの差異は生まれてはならない。という強い結論だと思う。
もうちょっと「良い言い方」をすると、「生きていくうえでのコストの差異は可能な限り最小化するよう、社会がコストを負担し努力・改善するべきだ」という話だと思う。
 
批判的にこの主張について考えると、
「世界の格差」の方がよっぽど生きていく上でのコストの差になってると思うし、(偏見かもしれないが)先進国の比較的裕福な環境で、先進国の中で平等な環境が欲しいと言っているのではないかと思ってしまう。
 
これは、「できる限り多くを救う」という多数側の論理だから、そもそも前提が違うのだろうか?
 
「できる限り多くを救うが、弱者は存在する」という
ロジックが実行されてきたから今の社会構造があり、それに対する批判が今のマイノリティのあれそれなのだろうか。
 
しかし「できる限り多くを救うが、弱者は存在する」が間違っていると仮定すると、
有限なリソースをどう配分するのか。僕には解が無いように思える。
 
有限なリソースを奪い合うという社会構造を変えないと、
【原則:誰も排除されてはならない】という原則は達成できないのではないかと思ってしまう。
 
この原則は達成できないのに、トランスジェンダーだけ救うというのは、
マイノリティの中で声が大きいところを救うという話になってしまわないのか?トランスジェンダーを救うことで原則に近づいているように「思える」から良しなのか?
 
わからん。わからんから盛り上がるんだろうけど
 
次に、トイレについて
 
トイレは、機能的には利用可能である。
これは身体的機能の問題で利用できない人との比較である。
一方で、構造的に利用できないというのはどういうことなのか?気になった。
要素としては以下のものがあるだろう
・男と女の2分類を前提とした設備であること
 
疲れたのでここまで